今年の夏休みの理科実験講習は「アジの解剖」をしました。
小学1年生から6年生までが参加してくれ、魚のつくりやハサミの入れ方の説明の後、一人一尾ずつ解剖していきました。
最後は「いただきます」「ごちそうさま」の意味を考えながら、魚を焼いて試食しました。
こうした実験が子どもたちは大好きです。皆目が輝きます。年齢もさまざまなので、自然と上の年齢の子が下の年齢の子の面倒を見ます。
私はほとんど注意することもなく皆思い思いに自由に、それでいて説明はしっかり聞けていたようでワクワク楽しい時間が過ごせました。
中でも印象的だったのは、小学1年生の男の子でした。彼はアジの目の中にある水晶体を取り出しました。
思いのほか透明できれいな様子に、「お家に持って帰って、ママに見せる」と大切に紙ナフキンに包んでいました。
焼き魚を食べ終わり、他にも理科実験をいくつかして片付けをして帰りの挨拶をしようとした時、その男の子が「水晶体がない!」と探し出しました。
周りの子も皆探してくれましたがどこを探してもなく、私が「アジはスーパーで売っているからまた取り出せるよ。」と言っても「やだー」と泣き出します。
後はゴミの中を探すしかないと私はゴミ袋をひっくり返して必死で探しました。「ないなー」と思いながら何度も見直してみているうち、きれいに四角に折った紙ナフキンを見つけました。
そうっと指でさすってみると、ふたつのちいさな丸いものが指に当たりました。「○○くん、これ?」と聞くと「あったー!」と大喜び。
間違えてゴミ袋に入れてしまっていたのでした。彼にとってこの水晶体はここでの経験で得られたたった一つのものとして大切なものであり、代替の効かないものだったのでしょう。
体験と物そのものに対する子どもの思いを感じた出来事でした。
今回のこうしたことで私にはよみがえったことがあります。
私の子が小学3年生の時ある有名塾の入塾テストを受けた時のことです。
テスト後の解説で先生が「こんな問題もできないならどこも合格できないよ」と強い口調で言っていました。
全く訳のわからない私の子はなぜそんなに怒られるのか不思議だったようで「ここは行かない」と言って帰りました。
興味関心でいっぱいの子ども達の思いを問題が解けるか解けないか、できるかできないかだけで判断し、伸びる芽を潰していくことはどうしても受け入れがたいと感じます。
塾の先生にしてみれば成績をあげようとの熱心さから強く言ったり大量の宿題を出したりすることは一つの方法でもあります。
ですが、まずは考えたこと自体評価すべきです。
その子が努力してベストをだせる最高の場面を引き出してあげられるよう一人ひとりをよく見て接することが私の掲げる目標です。
学習はやればできます。やるときはやるように育てること、そのためには人との比較ではなく、興味関心の芽を大切にし、その子の頑張りを認め、信じること。
今年の講習で子ども達の純粋無垢な気持ちを目の当たりにして私は改めて思いを確かにしました。